管理人のこと

管理人の写真 等身大のスポーツ、小柄な自分の体に一番近いんです。必要なものは、愛用のスケート靴と手袋。たったこれだけ。すべては自分の好きなリズムに合わせればOK!のんびり滑ることも良し、休みたければ休むも良し、いざとなれば瞬発力全開で「がむしゃら」になって滑るのも良し。夏はフリースの上着持参で。冬なら大空の下、暖かな陽射しと冷えた空気を交互に浴びながら。まさに思いのまま。

でも、いくらスケートのことが好きでも、ひとりで滑っているとつまらないんです。1日中滑っていても飽きないはずなのに、30分で煮詰まってしまう。いつも居るはずの常連が居ないのは寂しいですね。最近は、インラインスケートや【暖房室】用の取材であちこち遠征に出かけることが多くなって、ホームリンクに行く回数がめっきり減ってきた。するとあっという間に、来るはずの人が来なくなってしまう。来るはずの人が来なくて寂しい思いをするのはみんな同じ。そのためには、まず私が行くこと。来てくれた人が「居る居る...」なんて言いながら、いつも気楽に集まってくれるように。そして自分も寂しい思いをしないように。それじゃあ、またどこかの遠征でも企画しようかな。
写真:1993年の冬、軽井沢スケートセンターの400mトラックにて。
フォワードクロスの図。まだ靴を買い替える前だった。
後ろにそびえる山は、浅間山です。景色がきれいですね。

コンピュータとスケートと私の歩み

小学4年の頃、学級文庫に「子供の科学」があり、掲載されていたラジオを作ったことがある。1年後、物足りなくなって「初歩のラジオ」を読み始め、そこに「MZ-80 BASIC入門」が掲載されていた。あまり気に止めていなかった。

1979年秋、第2次パソコンブームの初期、偶然訪れた店頭に置かれていた NEC PC-8001 に出会う。頭の片隅にあった、たった2行のプログラムがすんなりと動いた瞬間から、パソコンとの付き合いが始まった。地元商店街のパソコンショップを巡っていた頃、知識豊富な兄貴分の常連さんと店員さんに憧れ、「教える」ということに目覚める。

1989年春、以前からやってみたかったローラースケートを始める。後楽園の黄色いビル4階にあるローラースケート場には毎週のように通っていた。しかし、その2つ上の階にあったアイススケート場の存在など全く気にも止めていなかった。甲(かん)高い女性の声で「後楽園アイスパレス」と読み上げるテレビの宣伝文句は覚えていたにもかかわらず...

ローラースケートに興じている中、幼少の頃に行ったことがある地元の「東武川越スケートセンター」のことを思い出し、1年半後にアイススケートを始める。東京は御徒町(おかちまち)のムラサキスポーツの前で、愛用のローラースケートに似ている黒い革靴にしようか、プラスチック製のかっこいいやつにしようかと迷って買ったのが、プラスチックシェルの BAUER TURBO だった。ここで革靴のフィギュアを買っていたら、今の自分はかなり変わっていたかもしれない。まだ、ホッケーもフィギュアもスピードも知らなかった頃。さらに1年後、インラインスケートを始める。インラインも、1足目を買ったのは同じ店だった。

アイススケート1年目は、東武川越に良く通っていた。常連と思われる上手で派手な動きの人がたくさん居られたが、私はマイシューズで滑っている嬉しさで十分だったため、気には止めていなかった。翌年の1991年冬、西武園にスケート場があることを知り、行ってみた。そこで出会ったのが、後にお気楽スケーターの会のもととなるメンバー、名誉会長の「篠さん」と、副会長の「廣田さん」だった。まだ、お気楽の名前はなかった。それを機に、あちこちのスケート場を巡りはじめることになる。

インターネットが流行り始めた頃、経験を積むため「関東周辺のスケート場情報」を開設。「お気楽スケーターの会」が発足した1996年の冬、サイトを「暖房室」と名付け、規模を拡張。ドメイン名も取得して、現在に至る。


コンピュータエンジニア
情報アドバイザ
アイス/インラインスケーター
第3級アマチュア無線技士